大多喜城主、本多忠勝が「戦国最強 猛将ランキング」で第一位となりました!

大多喜城主、本多忠勝が「戦国最強 猛将ランキング」で第一位となりました!

戦国最強 猛将ランキング
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1. 忠勝と生い立ちと武勇伝

(この項については大多喜町教育委員会、小高春雄氏から寄稿頂いたものを当館職員加藤が編集しました。
小高氏には感謝申し上げます。)

本多忠勝は天文17年(1548年)、三河国額田郡蔵前(現愛知県岡崎市西蔵前)に本多忠高の長子として生まれた。
幼名を鍋之助、通称は平八郎である。本多氏は古くから「松平(後の徳川)氏」に仕えた譜代家臣の家柄である。
忠勝は自分の代になって岡崎城東の洞(ほら)へ移住した。
なお、本多家には5つの系譜、洞、伊那、大平、土井、小川があり(NHK大河ドラマ「真田丸」でも登場した)「本多正信」は小川本多家である。忠勝の初陣は永禄3年(1560年)13歳のことで、家康が駿河遠江の大守「今川義元」の先鋒となって行った「尾張大高城の兵糧入れ」に加わった。
15歳の時の戦では叔父の忠眞が、自分が倒した相手の首をとるよう命じたものの忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断った逸話が残っている。勇猛な忠勝らしい少年時代であったと言える。
三河の国は「一向一揆」が多く発生し、家康は大変苦労したが、忠勝は常にこれに従い活躍した。その結果18歳にして与力50余人が与えられたという。(2017年2月19日 続く)

 

「家康に過ぎたるものが二つあり・・・・」
戦国の世は「織田」「今川」「武田」「北条」といった有力大名たちが群雄割拠した時代である。
そうした中、徳川家康は、元亀3年(1572年)武田信玄と遠江、三河で衝突した(一言坂の戦い)。
この時に黒糸威の鎧と鹿角兜を身につけ大奮闘したのが本多忠勝である。
後に「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と武田の武将に言わせしめたほどの戦いぶりであった。
ちなみに「唐の頭」とは「ヤク」(チベット地方にいるウシ科の動物)の毛を兜に束ねたもので、輸入品ゆえ滅多に入手できなかった貴重品で、それと並び称されたのである。
(2017年2月26日 続く)
 

「花実兼備の勇士」
天正3年(1575年)の「長篠の戦い」後、武田氏が滅ぶと、家康はこの間の忠勝の戦功を賞し「花実兼備の勇士」と褒めたたえた。
時に忠勝35歳、花も備えた風格を帯びていたようである。ただ、武将の花とは、相手を威圧する優美さでもある。
この当時、馬上の武将が競って鎧・兜・指物等武装に気を使ったのは、視覚的・心理的に相手を威圧する「花」なのである。
 

「秀吉も認めた勇者」
豊臣秀吉が天下人となり、家康が大阪城にて秀吉の前に屈服する姿は、テレビドラマ等でよく知られている。
その後、両者の同盟の証として秀吉の妹「朝日姫」と家康の婚儀が整ったが、家康側からの結納の使者について秀吉は「その格にあらず」として気に入らず、結果的に「本多忠勝」が望まれて大阪城に派遣されたという。
(2017年3月1日 続く)
 

「大多喜城主10万石の途」
天正18年(1590年)小田原城は開城し、秀吉から家康に北条旧領が宛がわれた。この処置により忠勝に大多喜城10万石への途が開けていくことになった。
この状況を知る文書が「滝川忠征宛て本多忠勝書状」である。忠征は秀吉近臣で、その内容は「あなたのお世話で私の希望がかない、上総の万喜城に入ることになりました。
知行もたくさん頂戴し・・・中略・・・これもひとえにあなたのおかげです」というものである。
忠勝はこれ以前に上総の「長南城」に入っており、したがって短い期間で長南城→万喜城→大多喜(当時は小田喜)城へ移ったのである。
こうした出世の背景にはその能力・実績に加え、秀吉と顔見知りで信頼を受けていたことも大きいと思われる。
大多喜に入城してからの忠勝は、南の里見氏への防御を念頭に、城下を強固に整備し、現在の大多喜町の原形を作り上げていくのである。
(2017年3月16日 続く)
 

「晩年の忠勝 大多喜から桑名(三重県)へ」
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦後処理に伴う知行割で、忠勝は桑名10万石の城主となり、大多喜城は次男の忠朝に与えられた。
同9年、忠勝は病により隠居を願い出たが許されなかったという。このころ、忠勝は「戦友」に宛てた書状の中で「去年より眼病気に候て・・・・」とあり、眼の病を患っていたことがわかる。
その後も病身を押して公務に励み続けたため、将軍秀忠は労いの言葉を送っている。
慶長10年(1610年)10月18日、戦国の世を駆け抜けたさしもの勇将もこの世を去った。
墓は桑名の浄土寺にあり、大多喜には良玄寺に供養塔がある。
62年間の壮絶な人生であったと思われる。
(2017年3月24日 この項終わり)

 

2. 忠勝のシンボル「蜻蛉切」(とんぼきり)

勇猛果敢な忠勝と言えば「鹿角脇立」(ろっかくわきだて)の兜や、肩にかけた「金色の大数珠」などが有名であるが、何といっても迫力満点なものが「蜻蛉切」と呼ばれる槍であろう。
下の絵は大多喜町出身のグラフィックデザイナー福田彰宏さんが描いたイメージ(当館ミュージアムショップで紙袋で販売中)であるが、蜻蛉が刃先にとまっただけで二つに切れてしまう、という逸話があるほどの槍である。
原物は個人所有で、現在は静岡県三島市の「佐野美術館」に寄託・保管されている(展示は不定期)。
笹穂の槍身で、穂(刃長)1尺4寸(43.7センチ)、茎1尺8寸(55.6センチ)、最大幅3.7センチ、厚み1センチ、重さは498グラム、樋(刃中央の溝)に梵字と三鈷剣が彫られている。
三河文珠派、藤原正真の作である。また、蜻蛉切の「写し」として刀工、固山宗次が1847年(弘化4年)に作成したものが東京国立博物館に所蔵されている。
オンラインゲームでもすっかり有名になり、刀剣女子たちにも知られた「蜻蛉切」、かつて原物を見たが、あまりにも鋭いその刀先に感動したものである。
(2017年2月19日 この項終わり)

忠勝蜻蛉切まとめ

 

1609年、本多忠勝の次男「忠朝」が大多喜城主であった時代のことです。フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船、サン・フランシスコ号が御宿の「岩和田沖」で遭難し、座礁しました。
当時、外国の船など見たことのない岩和田の人々は、それでも嵐の中、懸命に救助活動を行い、多くの船員達の命を救ったのです。

サン・フランシスコ号が御宿の「岩和田沖」で遭難

 

(上図は御宿町HPより引用)
かろうじて生き残った船員達は、岩和田の人たちの懸命な看病のおかげですっかり元気になりました。船長は「ドン・ロドリゴ」と呼ばれ、これらの出来事を詳しく日誌に記していました。
これが「日本見聞録」として現在でも貴重な歴史資料となっています。
見聞録によれば、ロドリゴ一行は、おそるおそる当時の領主「本多忠朝」に面会しました。
城は鉄の扉で囲まれ、命を取られるかもしれないという恐怖があったようです。
ところが忠朝はとてもやさしく温かに迎えたそうです。
それどころか、その後、将軍秀忠や大御所(徳川家康)にまで会うことができ光栄であったと、記しています。忠勝が「忠義一徹の武将」に対して忠朝が「温情の勇将」と言われる所以です。
ドン・ロドリゴの生誕地はメキシコの「テカマチャルコ市」です。
こうした縁で御宿町と同市は姉妹都市となり、また、大多喜城にもメキシコの方々が、毎年来館していただいています。これからも国際交流の場として当館を利用して頂ければ幸いです。
(3月31日 この項終わり)

 

メキシコの学生たち

写真は昨年度、御宿町に招かれたメキシコの学生たちです。

メキシコの学生たち2

写真は昨年度、御宿町に招かれたメキシコの学生たちです。