おうちでミュージアムWEB

「おうちでミュージアムWEB」開館!

新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、当館も再び休館となりました。
皆さんも、「おうち」にいる時間が長くなるのではないでしょうか。
そんな時には当館の「おうちでミュージアムWEB」をお楽しみください。当館の収蔵品などを紹介したいと思います。

 

100年前のベストセラーカメラ「ベストポケットコダック」(米)、「ピコレット」(独)、「パーレット」(日)揃い踏み!

 今回はほぼ同じころにアメリカ、ドイツ、日本でつくられた、大きさ、形がいっしょのカメラを3台選んでみました。構造も折り畳み式で共通し、蛇腹の先についているレンズボードを引き出すタイプです。下の写真で、どれがどこの国でつくられたものか、当ててみてください。(答えは一番最後にあります。)
 そこから、もう少し詳しく知りたい方は以下の解説をご覧ください。また個々の機種については「千葉県立博物館 資料データベース」(当館HPトップページ下段ピックアップコンテンツ「収蔵資料検索」から検索)にも登録されていますので、そちらも併せてご覧ください。

 なお、昨年放送されたNHKの連続テレビ小説「エール」の第17週の回で、主人公の古山裕一の出征が決まったときに、出征前に奥さんの音が写真を撮ろうと庭で手にしていたのが、これらのカメラとよく似ていました。今回紹介するカメラはそれよりも古いカメラになりますが、時代考証を経てドラマや映画などでお目にかかることがあります。今後はそういう目でこうした小道具にも注目してみると、また違ったカメラの世界が見えてくるかもしれません。

【どこの国で作られたカメラかな?】

 

【解 説】

 まず、紹介するカメラは、世界最大の感光フィルム材料メーカーになったアメリカのコダック社が1912年から発売した大衆向けのロールフィルムカメラ「ベストポケットコダック」です。1926年に製造が中止になるまで生産されました。

【ベストポケットコダック(Vest Pocket Kodak 、V.P.K.)】

資料名:ベスト・ポケット・オートグラフィック・コダック・スペシャル 製作:1921年
製造:イーストマン・コダック(米)、サイズ:縦・奥行25mm、横・幅120mm、高65mm

 「ベストポケットコダック」は大量生産された最初のカメラで、ベストセラーカメラとなり、このカメラの形態と127タイプのフィルムが世界的にブームとなります。
 次に紹介するのはその一つで、その当時高性能のレンズやシャッターなどカメラの重要な部品を世界に供給していたドイツでコンテッサ・ネッテル社が製造したベスト判カメラ「ピコレット」です。外観の特徴として、スタンドを前板に一体成型しています。

【ピコレット(Piccolette)】

資料名:ピコレット、製造:1926年、製作者:コンテッサ・ネッテル(独)
サイズ:縦・奥行30mm、横・幅120mm63、高63mm

 最後に紹介するのは、アメリカ「ベストポケットコダック(Vest Pocket Kodak)」とドイツの「ピコレット(Piccolette)」の”いいとこどり”の形で、日本の小西六が製造した「パーレット(Pearlette)」です。戦後、昭和21(1946)年まで製造されました。「パーレット」に先行して新宮館からも「ニューベストサレット」が発売されていて、日本国内でそのコピーを作るのに躍起になっていたことがうかがわれます。なお、1930年後半までいくつかのメーカーでコピー機が作られ続けます。

【パーレット(Pearlette)】

資料名:パーレット、製造:1932年、製作者:小西六本店(六櫻社)
サイズ:縦・奥行34mm、横・幅124mm、高65mm


 そこで、「ベストポケットコダック」のアメリカと「ピコレット」のドイツ、そして日本の関係を、時間を少し戻して世界情勢という観点からみてみましょう。1910年代の最も大きな出来事は第一次世界大戦になります。日本は、大正3(1914)年8月23日に日英同盟に基づき連合国の一員としてドイツに宣戦布告します。陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を、海軍は南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略します。大正7(1918)年 に第一次世界大戦が終結し、翌年、パリ講和会議が開かれ、日本はドイツの持っていたアジアにおける権益を継承することになったことは周知のとおりです。
 「ベストポケットコダック」と「ピコレット」をそれぞれ手本に、日本でも開発が進められましたが、「パーレット」のネーミングからもわかるように、ターゲットは「ピコレット」だったのでしょう。ただし、「ピコレット」のドイツとは前述のように数年前まで政治的に敵対していたので、ちょっと不思議な感じがします。しかし、当時日本は戦場から遠いこともあって、明治以来近代化の手本としてきたドイツに対しては、大戦中も親近感をいだく者が多かったといわれています。特に技術のような無機質な世界では、国際情勢とはまったく異次元の作用が働いたのかもしれません。また、ドイツの質実剛健な国民性などに共鳴するところも多分にあったのではないでしょうか。その後、フィルム生産や大衆向けカメラに主眼を置いていたコダック社にとっても、ドイツの優秀な技術力は垂涎の的で、後に、ツァイス・イコン社(独)の技師だったナーゲル博士のナーゲルカメラ工場を1931年に買収して、ドイツ・コダック社を設立し、ヨーロッパにおける高性能カメラ製造の足掛かりを築くほどでした。
 このように精密機械といえばドイツという評価は、国際的にも揺るぎないものになっていました。その後もドイツでは常に新機軸を打ち出しながらカメラ生産を続け、世界のカメラ業界をけん引し、今も名器といわれる機種を数多く世に送り出しています。しかし、それは日本のカメラ業界にとっては大きな壁として立ちはだかることとなり、ドイツカメラの模倣からの脱却が不可欠な課題となっていました。その壁をやっと乗り越えることができたのは、1950年代に入ってからと言われています。(一社)日本機械学会はそれを顕彰して、日本カメラ博物館が所蔵する1950年代に生産された5機種の一眼レフカメラを2020年度「機械遺産」第101号に選定しました。
 選定理由はまさに、「「カメラといえばドイツ」という評価を逆転させた」でした。その評価を決定づけたのは、5機種のなかでは最も新しい、1959年に発売された日本光学工業(株)(現(株)ニコン)の「ニコンF」です。最も象徴的だったのは1964年に開催された東京オリンピックの会場になった報道席が、どこも「ニコンF」とその望遠レンズでほとんど埋め尽くされたことでした。それまで報道写真の現場で大きなシェアを占めていた、ライカ(独)やスピグラと呼ばれていたグラフレックス(米)の大型カメラの「スピードグラフィック」などのプロ用カメラが、「ニコンF」によって完全に駆逐されてしまったわけです。
 「ニコンF」はそれまでに実現していた技術の粋を一台のカメラに凝縮した、同社初のレンズ交換式の一眼レフカメラで、絞りと露出計が連動し、毎秒3.6コマのモータードライブなど世界初の機能も搭載し、あらゆる撮影シーンに対応することができたことが大きな飛躍につながりました。なお「ニコンF」の直線を基調とした洗練された機能美は、デザイナーの亀倉雄策が手がけたものですが、彼は東京オリンピックのオフィシャルポスターをデザインしたことでも知られています。

 

【どこの国で作られたカメラかな?回答】

    左    (Pearlette,1932,日本)
  中央  (Vest Pocket Kodak,1921,米国)
    右    (Piccolette,1926,独国)