2020国際博物館の日記念事業 パネル展「街道をたどる」

お家で街道あるきをしよう!

 

ぬりえチラシおうちでやってみよう~!

関宿周辺を通る歴史的に意義のある大小の街道を取り上げ、往来の様子や景観などについてパネルで紹介します。

 

企画展(パネル展)概要

展示名 2020国際博物館の日記念事業 パネル展「街道をたどる」
開催期間 令和2年4月14日(火)~6月28日(日)
会場 千葉県立関宿城博物館 3階多目的室 

街道

(共催:千葉県立関宿城博物館友の会)

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お家で街道あるきをしよう!

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パネル展「街道をたどる」

 

 江戸時代は、日本橋を起点に5街道とその脇街道なども整備されました。関宿には日光街道の脇街道である日光東往還が通り、周辺には利根川舟運の一部を陸路にした木下街道や鮮魚街道、庶民の生活に密着した脇道などさまざまな道が通っています。
 このたび、本展覧会ではこれらの関宿周辺の大小街道を写真パネルにしました。新型コロナウィルスが猛威を奮っている中、当館でも臨時休館中になっております。今回、展示予定だったパネルをホームページ上で紹介し、かつての街道の名残から、当時の往来の様子を多少なりともお伝えできればと思います。
 そして、新型コロナウィルスが収束した際には、ぜひウォーキングやサイクリングで、歴史街道めぐりをしていただければ幸いです。

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 日本は海に囲まれた島国で、山地が多い環境のため、近世までは大量の物資や人の移動には、海や川を使い、船を用いました。また道を作る際には、山を避け、海沿いに開けた平野や山に囲まれた盆地などに通します。河川を渡る地点は、なるべく楽に徒歩で渡れる場所を選び、内陸部に道を通す時は渓谷に沿って谷間を進み、低い峠を越すなど、地理に順応して整備されました。
 古代の律令時代(7世紀後半〜10世紀)以前に、都であった奈良地方と地方諸国を結んだ7本の幹線道路(北陸道・東海道・西海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道)が作られ、近世までの街道の原型が作られます。その後、平安時代には京都を中心にした街道になり、舟運も多く行われるようになり、水上交通を網の目のように結ぶ内陸交通路が出来上がりました。
 中世になると鎌倉に幕府が置かれ、鎌倉へいたる街道(鎌倉街道)が、近世では江戸に幕府が置かれ、江戸に向けての5街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)が整備されます。

地図

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  江戸時代に日光街道の脇街道として作られた往還で、関宿道、久世街道、結城街道、多功道などと呼ばれ、文化3年(1806)に作成された「五海道其外分間延絵図並見取絵図」では関宿通多功道という名称が使われました。また周辺の人々は日光街道と呼ぶこともあります。
 水戸街道の小金宿(松戸市)先から分岐して北上し、雀宮(宇都宮市)で日光街道に合流する約82kmの道のりで、途中には関宿、境、結城、多功などの10宿がありました。
 道中奉行が管轄した重要な脇街道の一つで、幕府が整備した街道に多く見られる、宿場や城下の出入口が鉤形(クランク)になるという特徴があります。この街道は周辺大名の参勤交代や物資の輸送、庶民にも利用されました。
 江戸時代前期に第11代関宿藩主・板倉重常は逆川を開削し、利根川と江戸川、権現堂川をつなげ、利根川から江戸へ舟運を広げたといわれます。江戸川沿いには、関宿3河岸(内河岸・向河岸・向下河岸)ができ、江戸に向けた舟運で関宿は栄えました。当初、江戸川沿いに北上するこの街道は関宿城下にまっすぐ進むルートでしたが、関宿の地に入ると西に曲がり、新たな河岸場を回るルートに変わります。そのため、関宿藩の大手門の位置も内河岸側に変更されたといわれています。

起点

起点付近

クランク

クランク

合流点

合流点

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 江戸時代は、日光道中とも呼ばれ、徳川家康の廟所が久能山から日光東照宮に移され、将軍の日光参詣が制度化されたことによって整備された街道です。日本橋(中央区)から鉢石(日光市)まで約143kmで20宿(千住・粕壁・栗橋・古河・雀宮・宇都宮など)あります。このうち宇都宮宿までの16宿は奥州街道の宿場と兼ねています。
 江戸時代初期には、東北地方と江戸を結ぶ奥州街道の整備を主目的とし、宇都宮から日光東照宮までの街道を日光道中と呼んでいました。しかし日光社参が頻繁に行われるようになると、日本橋から日光東照宮までを日光道中と呼ぶようになり、宇都宮宿以北を奥州街道と呼ぶようになりました。
 この街道の成立は元和3年(1617)頃と思われます。将軍の利用により本陣や脇本陣が宿場町に整備され、また宿場に出入りする場所にはクランクがつくられており、今でもその名残が見えます。

日本橋

日本橋

草加

草加宿 松並木

一里塚

一里塚

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 水戸街道は、当時は水戸道中と呼ばれ、水戸方面からは江戸道と呼ばれていました。日光街道に付随する街道で、江戸と徳川御三家の一つ水戸藩の城下を結ぶために整備された、5街道に次ぐ重要な脇街道(脇往還)です。そのため千住から松戸までは、本来、脇街道を管轄する勘定奉行でなく、5街道の管轄にあたる道中奉行が管轄した最重要脇街道でした。水戸藩が街道の整備を行い、常陸や奥州の大名(津軽藩、仙台藩、南部藩など二十余藩)も参勤交代などで利用したり、江戸への物資輸送路としても利用されました。
 江戸から水戸まで約116kmで、19宿(千住、松戸、我孫子、取手、牛久、土浦、府中など)あり、千葉県内の宿場は松戸、小金、我孫子です。

金町

金町関所跡碑

松戸

松戸宿船橋の図

玉屋

小金宿玉屋旅館

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 木下街道は、銚子に水揚げされた魚介類を運ぶための下利根川と江戸を最短距離でつなぐ木下河岸(印西市)から行徳新河岸(市川市)を結ぶ約36kmの街道です。庶民の道として発達したため、江戸時代には決まった街道名はなく、目的地に応じて下利根方面からは行徳道、江戸道、江戸方面からは鹿島道、銚子道、印西道などと呼ばれました。銚子に漁場が開かれた慶安3年(1650)頃から徐々に使われ、元禄期(1688〜1703年)頃に江戸の人口が急増し、東京湾で獲れる江戸前の魚だけでは間に合わなくなり、本格的に整備されたようです。銚子から高瀬船で利根川を遡り、木下から馬の荷で行徳まで運び、再度船に積み替えて日本橋まで運びました。また、江戸時代後期に、利根川下流の息栖・香取・鹿島の三社詣の旅で旅客船に乗るために、江戸方面から多くの人々が利用するようになりました。
 鮮魚街道も銚子からの鮮魚を運ぶ街道で、利根川の布佐河岸(我孫子市)から江戸川の納屋河岸(松戸市)までの約30kmを結んでいます。布佐からは松戸道、松戸からは布佐道と呼ばれました。木下街道と同じ頃から使われ、宝暦末期(1760年)頃には、木下街道よりも鮮魚の運搬が増えました。一頭の馬で運ぶ「通し馬」が許されており、その許可が出なかった木下街道よりも便利だったことも一因とされています。ほぼ2日間で銚子から日本橋に着いたといわれます。

木下街道

利根川図志

利根川図志木下河岸 

魚文

魚文の碑行

行徳

徳新河岸常夜灯

鮮魚街道

布佐

布佐河岸

藤ヶ谷

藤ヶ谷の常夜灯

松戸納屋

松戸納屋河岸跡

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  脇道は、多くは庶民の生活に密着した道として発展します。先にあげた木下街道や鮮魚街道も、脇道の一つとして発展し、多くの物資や人が移動する街道に発展していきました。
 当館のある野田市は利根川と江戸川に挟まれています。利根川へは、野田市瀬戸付近で鬼怒川も合流し、これらの河川を使った舟運により、江戸時代以降、東北地方と江戸を結んで人や物資の移動が盛んに行われていました。移動は全てを通して船を使うものばかりでなく、鬼怒川や利根川の舟運を途中の河岸で降りて、陸路の街道を使う方法も取られました。
 市内に残る江戸時代の道標には、渡し場への案内が多くあります。市北部の関宿地域では、利根川・出洲地区(野田市木間ヶ瀬)にあった長谷の渡しから、江戸川の岡田河岸に進む小さな街道沿いにはたくさんの道標があり、この街道が頻繁に利用されていたことが窺われます。一方、市南部では今上河岸や今上渡しを経た武州方面からの人たちが、利根川の河岸や、その先の成田山を目指して歩いた道も見られます。これらは逆に辿れば、東北方面から江戸に通じるルートでもあり、また醤油産業の発展で賑わった野田の中心地へ向かう道でもありました。
 利根川と江戸川を結ぶこのようなルートは、「江戸川利根川河岸場間道絵図」にも見られるように、商品作物を江戸に早く運ぶため、幕府権力を避けた交通路だったと考えられます。

長谷渡し-岡田河岸ルート

長谷の渡し

長谷の渡し付近の石塔

日光東

日光東往還との交差地点

岡田

岡田河岸バス停

今上渡し-三ツ堀河岸・木野崎河岸ルート

今上

今上渡し付近

三ツ堀河岸

三ツ堀河岸(陸軍迅速図挿絵より)

今上河岸から成田道

廻船

廻船問屋 桝田家

太子堂成田

太子堂成田道 道標

太子堂

太子堂

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  鎌倉街道は、鎌倉古道・鎌倉往還・鎌倉大道などの総称で、中世初期に、御家人たちが有事に鎌倉へと馳せ参じるために、鎌倉と各地を結んだ街道です。初期の鎌倉街道は道幅が決められ、直線的に作られており、丘陵部では馬に乗った武士の進軍が見えないように、両側を壁のようにした掘り割り道を作るなどの特徴があります。室町時代頃からは武士のためだけでなく、流通の用途も加わったため、村々を結ぶ道が増え、地形に応じて曲がり、狭い道も増えていきます。
 関東の主要な鎌倉街道は上道、中道、下道といわれ、関東の諸国を通り、信濃(長野県)や越後(新潟県)、陸奥(ほぼ東北地方)などの地方をつないでいました。上道は武蔵西部を経て高崎(群馬県)にいたり、信濃、越後へ抜ける道(近世中山道の元道)、中道は武蔵国東部を経て下野国(栃木県)から奥州(東北地方)へいたる道(近世奥州街道の元道)、下道は2つのルートが考えられており、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して 常陸へ抜ける道(近世水戸街道の元道)と金沢六浦(神奈川県)から東京湾を渡り、房総半島に上陸して、上総(千葉県)、下総(千葉県)、常陸(茨城県)と向かう道があります。
 これらの鎌倉街道と地方道をつないだり、新たに建設したりして、近世の街道は整備されました。近代、現代と開発などにより道はますます変化し、中世以前の道の跡が残っている場所は少なく、わかっていないことも多くあります。

中道

中道

下道

下道1

下道2

下道2

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 明治期以降、文明開化によって物流が鉄道へと移行していきます。また、馬車や自動車などが使われるようになり、道の整備も進んでいきます。第二次世界大戦以後、トラックによる陸上輸送が進み、道が広く、平らになり、自動車専用道路などもできていきます。
 しかし、街道自体は元々あるものを利用することが多く、日光街道は国道4号線へ、水戸街道は国道6号線へ、日光東往還は県道17号線(流山街道)になっています。交通量の多い街道はバイパスを作ったり、曲がりくねったクランクを真っ直ぐな道にしたりして、車での往来に適した道に変えていますが、まだ、古い街道の名残を見ることができます。

陸前

陸前浜街道踏切

今の

今の道標