関宿を介した利根川筋の干鰯・肥糠流通ルートについてー擬物肥糠俵出廻りの一件よりー

 

   関宿を介した利根川筋の干鰯・肥糠流通ルートについて
                  —擬物肥糠俵出廻りの一件より—

                        榎   美 香 

一、干鰯の集積地、関宿

 江戸時代から明治時代中期頃まで、日本の農業、特に商品作物の生産にあたって鰯や鰊などの魚肥が果たした役割は大きい。中でも九十九里の干鰯(本稿では〆粕も含める)生産と流通については近世経済史の分野で多くの論考がある(1)。
 江戸時代前期、専ら干鰯を必要としたのは木綿栽培をはじめとする農業技術の先進地、畿内など西国であった。相模の東浦賀や江戸深川に関東の干鰯の集積場が形成され、問屋を通して廻船で西に輸送されたのである。
 鰯の大漁場であった九十九里浜南部から夷隅、安房地方で生産された干鰯は外房沿いの海路ルート(外海廻り)により東浦賀や江戸に一旦運ばれた(2)。また九十九里片貝周辺からは東金街道沿いの陸路と五大力船で江戸に送るルートも利用された。一方、九十九里北部や銚子、鹿島灘、そして東北で生産された干鰯は一旦利根川河口の銚子や飯岡に集まり、そこから高瀬船などで利根川を遡り江戸川を下って江戸深川に送られた(内川廻し)。
 ところが関東においても干鰯の需要が高まるにつれ、内川廻しで江戸に送られるはずの干鰯荷は途中の河岸で下ろされて内地の農村部に流れるようになっていく。ことに奥川筋への結節点であり関所もあった関宿は、利根川から北関東に直接捌かれていく干鰯の一大集荷場となり、大問屋が軒を連ねたのである。
 利根川そして関宿を介した北関東への干鰯荷の流通については交通史・経済史の中で知られているところであるが、同時期の具体的な生産者、仲介者、販売者のつながりを一度に把握できる好史料として今回、以下の史料を取り上げ、地図上でのルートの視覚化を図りたい。


二、擬物肥糠俵出廻りの一件

 東京大学法制史資料室に所蔵されている「武州葛飾郡幸手宿御用留」の中に、安政四年(一八五七)、混ぜ物をした肥糠俵が出廻り、関係者一同が取り調べを受けるという事件の記録がある。既に『幸手市史 近世資料編 ㈼』に翻刻文が掲載されているが(3)、本文部分のみ改めて本稿で紹介する。

〔史料一〕銚子・八日市場の干鰯・糠俵生産者より嘆願書
 銚子新生村、今宮村、飯沼村、荒野村、八日市場村の五か村の干鰯渡世の者一三名が拵えた肥糠俵に麦糠や砂の混ぜ物がしてあり、これに印を付けた上、上方からの高級な「下り糠」のようにして売り捌いていたとして関東取締出役が製作人達と各村の組頭や名主など差添(介添)を召し出して取り調べた一件である。史料は彼らが関東取締出役に宛てた申し開き嘆願書である。誌幅の都合上、奥書連名部分は省略し本文のみを記す。糠俵を作った銚子等の干鰯渡世人と差添人の名は(表1)にまとめて記した。
「  乍恐以書付御歎願奉申上候
 松平右京亮領分下総国海上郡銚子新生村百姓ニ而農間粕干鰯渡世三右衛門外左之名前之もの共、并役人共一同奉申上候、近来当所ニ而俵拵致し諸方江売捌候肥糠之義、中実は米糠江麦糠或は砂等取交印付等下り糠ニ紛敷仕成、売買仕候義有之段厳重御調中ニ御座候処、当所近海近来不猟打続渡世向薄く甚難渋仕候ニ付肥糠商ひ相始、俵拵之義は下り糠ニ仕成、縄俵等損候分切解外目等相改手直し等仕候節、魚猟餌代りニ相用候糠砂等少々宛取交候義も可有之候、乍去分外之売徳為可受取如何之品売捌候義ニは無御座、乍併俵拵印等迄都而下り糠俵ニ紛敷仕成候段、此上御吟味奉受候而は一言之御答可奉申上様無御座候間、何卒出格之以 御憐愍御吟味是迄ニ而御宥免被成下度、尤以来如何之品売捌候義は勿論、俵拵等相改下り糠俵ニ不相紛様相仕立正路ニ売買仕、且役人共義も厚可心付候間、今般之義は偏ニ御慈悲之御沙汰上候、以上
   安政四巳年十二月廿四日」
 この本文の後に(表1)の者の名、そして以下の文が添えられる。
「 関東御取締御出役 馬場俊蔵 様
 前書奉歎願候通相違無御座候ニ付、私共義も倶々御慈悲之御沙汰奉願上度奥書印形仕候、以上
            川上金吾助御代官所
            武州葛飾郡幸手宿
   巳十二月            名主  知久順之助
                   同   祐右衛門
                   同   右馬之助 
                   同見習 慈之助」
 粕干鰯渡世の者達は、安政四年より前から鰯の不漁が続いて難渋していたため代替え商品として肥糠商いを始めていたが、俵の造りは「下り俵」同様に拵えていた。更に、縄や俵が破損して手直しする際に、魚の餌代わりにしていた糠砂などが少々混ざってしまったというのである。そして、これは儲けるために故意にやったのではない。以後気を付けるので、今回は何とか許してもらいたい、と嘆願している。
 立会人と見える幸手宿名主の知久順之助、祐右衛門、右馬之助、見習いの慈之助らもこれを弁護し、「御慈悲之沙汰」を願う一文を書き添えている。

〔史料二〕関宿町の干鰯・糠問屋より嘆願書
 関宿向河岸の粕干鰯肥糠渡世の者六名が〔資料一〕の疑物の糠俵を売買していた事について、「廻村先」へ召し出され、詳しく取り調べを受けた一件に対する関東取締出役への嘆願書である。
「  乍恐以書付奉願上候
 久世大和守領分下総国葛飾郡関宿町百姓ニ而農間粕干鰯肥糠類渡世致候太七外五人之者共奉申上候、近来下り糠ニ紛敷俵拵致、中実は米糠江麦糠・砂等取交売買致候由入 御聴、今般御迴村先江被 召出逸々御取調有之、右は私共義年来銚子湊所々ニ取引先有之、追々被積送候俵物之内、中ニは風雨ニ逢俵拵朽損し候も有之、其儘売捌方相成兼候ニ付手直し致自儘之印を打売捌候義折々有之、砂取交り候俵物は銚子湊ニおゐて網を打候節魚之餌ニ米糠を相用候処、海中故散乱不致ため重りニ相加候残り取紛、俵物ニ致し折々被積送候義も有之候ニ付、一般ニ右等之悪俵売捌候哉之風説相立百姓之難義ニ相成御捨難被置旨厳重奉請御利解一同奉恐入、右は全一己之利潤ニ迷ひ候義ニは無御座候得共、砂入候俵物吹訳候手数を厭ひ、其儘売捌取分太七・忠左衛門は俵印消失候分江何之弁も無之勝手儘之印抔をも差加候段、右両人は別而之義一同此上奉受御調候而は御答可申上様無御座候間、何卒格別之以 御憐愍御宥免被成下置度奉願上候、尤今般売先々江は粗漏之訳相断夫々聞済後日申分異論等無御座、且私共義已来猥之俵印、又は粗薄之品取引不致正路ニ渡可仕候間御仁慈之御沙汰挙而奉願上候、以上
   安政四巳年十二月廿四日」
 この後に(表2)の連名、そして先ほどの〔史料一〕と同様、幸手宿の知久順之助はじめ四名の名主らが添え書きしている。
 差出人の「関宿町百姓ニ而農間粕干鰯肥糠類渡世致候太七外五人之者共」は、(表2)の「太七、忠左衛門、藤蔵、徳左衛門、幸兵衛、富之助」の六人である。このうち、「徳左衛門」は関宿向河岸の染谷徳左衛門、「忠左右衛門・藤蔵・富之助」は町続きの向下河岸の小島忠左衛門と喜多村藤蔵・富之助父子(4)で、併せて「向河岸の大問屋四軒」として名が知れていた(5)。慶応三年の届出書によれば、この大問屋四軒の元治元年(一八六四)から三年間の平均商高は一人につき一ヶ年五万両程度であったといい(6)、これはとても「百姓ニ而農間」の稼ぎどころではない大商人である。
 特に喜多村家は、既にこの時期江戸に進出して、七代目藤蔵壽富が経営拡大に成功した結果、江戸でも最有力の干鰯問屋となっている。江戸店は嘉永七年(一八五四)には七〇〇両の御用金を幕府に上納するなど(7)、幕府も一目おくほどの豪商であったが、この疑物肥糠俵の一件においては取り調べを受ける不名誉な立場で名を連ねている。
 さて、関宿の干鰯問屋達の言い分によると、銚子から送られてくる俵物の中には風雨により破損したものもあるので手直しし、店の印を打って売ることもあった。その中には魚の餌の米糠が紛れているものもあったが、風説のように意図的に悪俵を売り捌いていた訳ではなく、つい分別の手間を惜しんだだけ、というのである。また今回販売した先々とは示談済みで、今後は留意するのでお慈悲の沙汰を、と願い上げている。

〔史料三〕栃木町など一六か村の干鰯・糠商人より嘆願書
 同じ擬物糠俵の件で、関宿から肥糠を買った下野国などの在郷干鰯商達による、関東取締役出役への弁明と嘆願書である。
「  乍恐以書付御歎願奉申上候
 戸田七之助領分野州都賀郡栃木町百姓与右衛門外左之名前之もの、并役人共一同奉申上候、私共義農間為渡世下総国葛飾郡関宿向下川岸忠左衛門・太七其外之もの共より粕干鰯并肥糠等買入仕聊之売徳受取、最寄近在江少々ツゝ売捌候処、右は近来下り糠ニ紛敷俵拵致し、中実は米糠江麦糠等取交売買致し候族も有之由入 御聴、私共義被召出右品取捌候始末御調中前書忠左衛門・太七其外之者共と篤と掛合候処、右之もの共より差送候品之内ニは買入先銚子表ニ而過而餌糠入交粗漏之拵いたし、猶関宿ニ至り弁も無之自儘之俵印付候を、私共ニおゐては如何とも不心付売捌候義ニ而利得ニ耽候訳ニは毛頭無御座候得共、畢竟紛敷品俵拵等注文致し売捌、銘々余分之売徳為可受取哉ニ相聞へ、且又何れも役人共義今般御調奉受候迄右等之始末不存罷在候段、是又御察当奉受候而は一言之御答ニ可奉申上様無御座一同奉恐入、已来之義は俵印中実等入念相改、聊ニ而も如何敷見受候品は決而取扱申間敷実意ニ売買仕、役人共も一同厚心付可申候間、何卒格別之以   御憐愍御吟味是迄二而御宥免被成下置度此段不顧恐以書付御歎願奉申上候、尤引合先々江は右粗漏之訳相断夫々事済相成居、後日申分異論無御座候間、偏二御慈悲之御沙汰奉願上候、以上
   安政四巳年十二月廿四日」
 この後(表3)のとおり、農間渡世のため関宿から粕干鰯、肥糠などを買い入れて近在へ売りさばいていた者達の連名が続く。一六ヶ村三六名の北関東の在郷干鰯商達とその差添一七名の名前が列記されているのである。そしてまた、幸手宿名主ら四人の添え書きも前の二つの史料と同様である。
 取り調べを受けた干鰯商達は、買入先の関宿の問屋達を問い詰めたようである。すると、関宿側では品の中に餌糠を混ぜた俵があることを把握していたのに、品質保証ともなる俵印を付けて売ったというのである。買った自分達は気づかずに売っただけで、儲ける意図など毛頭無かったので取り調べを受けても答えられない。今後は入念に改めた上でいかがわしい品は取り扱わないよう、商売人も村役人も重々気を付ける。売った先には委細説明し納得してもらったのでお慈悲の沙汰を願いたい、との内容である。
 連名者の在所は下野、上野、下総の多所に亘っており、この事件の波及範囲の広さ、そして関宿がこれらの地域への肥料供給センターであったことが知れる。

〔史料四〕干鰯・糠渡世人からの念書
 今回の件に関わった肥糠生産者、取次問屋、在郷肥料商人ら一同が連名で、幸手宿の名主宛に書き上げた念書である。
「  差出申一札之事
 私共義農間渡世肥糠売買之義、下り糠ニ紛敷如何之品取扱候義ニ付、今般関東御取締御出役馬場俊蔵様より御当宿江被召出夫々調奉受候処銘々不念之廉有之、既ニ其御筋江御差出ニも可相成候処、左候而ハ一同難渋至極仕候義ニ付各方江御頼申入御歎願被成下候処、格別之御慈悲ヲ以御勘弁ニ相成厚難有仕合ニ奉存候、尤売主・買主共後日異論無之筈示談行届候ニ付已来御願筋無御座、且御出役様御家来中は勿論、各方御取計御非分ニ存候義毛頭無御座候、依之為後日一同連印一札差出申処、如件
 安政四巳年十二月廿四日 壱
         引合弐拾弐ケ邨 惣連印」
             ゝ
 本来は本事件の関連村は全体で二二ヶ村であるが、恐らく押印しない村があったのだろう、二一ケ村の連印となったようだ。
 日付は、前三通で各所・各立場の者がそれぞれ関東取締出役に嘆願書を書き上げたのと同日の一二月二四日。宛先は「幸手宿名主問屋 知久順之介殿、同右馬之助殿、同祐右衛門殿、同見習慈之助殿」であり、〔資料一〜三〕で世話役としてとりなしの一文を添えてくれていた幸手宿の名主、知久家の者達である。取り調べ場所については、「御当宿江被召出夫々調奉受候」とある。これだけ広範囲の関係者全員が実際に幸手宿に呼び出されたのかどうかは不明確だが、もしそうなら大変な事件である。
 幸手宿は関宿からも近く、かつ今回の事には直接関っていなかった中立的な宿場ということで取り調べの場所に選ばれたのであろうか。しかし、当然関宿の問屋達と幸手の知久家は常々交流があったであったろうし、関宿側の肩を持つ形で立会人として口添えしたのだろう。その甲斐もあってか、全員が無罪放免となったのである。もちろん、この事件関係者全員が罪を負ってしまっては、北関東一円の肥料供給システム全体に支障をきたすことになり、幕府にとっても、それは避けたい事態であったと思われる。
 この資料で、干鰯渡世の者達はまず幸手宿名主達にとりなしの礼を述べたうえ、今後、関東取締出役の役人そして関係者間の不服が無いように、との総意を念書している。彼らが最も気にしているのは、大事な取引先同士が今回のことで禍根を残し、以後の商売に支障をきたすことであろう。相互に遺恨がないことを確認し合い、役所ではなく幸手宿の名主に宛てているということは、彼らに、このことの保証人となってもらいたいという意味であろう。

表1〜3


三、関係者の在所からみた利根川筋の干鰯・肥糠流通ルート

 北関東農村地域への魚肥流入経路については、古田悦造氏が一八世紀半ばの下野国南東地域への経路図を示しておられる(8)。ただ、これは専ら那珂川下江戸河岸の魚肥問屋からの流れが中心で、銚子から利根川経由のルートのほうは知ることができない。
 今回紹介した史料は、肥糠俵に関するものではあるが、〔史料一〕にあるように、実際には鰯の不漁によって扱い品を干鰯から代替えの肥糠に変えざるを得なかった銚子周辺の干鰯生産者達とこれを扱った干鰯問屋達との間での事件である。つまり、この件の扱い荷は肥糠であっても、生産者、取次者、各地の干鰯問屋達の関係性はそれ以前の干鰯取引における関係をそのまま踏襲しているとみることができる。即ち、この件で関わった者を見れば、銚子から利根川水運を利用し、関宿経由でどのような範囲に魚肥が流通していたのか、安政年間以前からの全体像を追いかけることもできる訳である。
 さて改めて関係者を見ると、生産者側は銚子、八日市場など五ヶ村一三軒である。そこから利根川を遡って関宿向河岸、向下河岸の問屋六軒に集められた肥料荷が下野、上野、下総など北関東一六ヶ村三六軒の在郷干鰯商達に売られていく。流れが視覚的に見えるよう(表1〜3)の関係者の在所を上図に示した。関宿から先の輸送先は、上流で利根川本流に注ぎ込む思川・姿川・黒川、巴波川、永野川、渡良瀬川、秋山川、また広瀬川、烏川などの河川沿いの河岸、また日光街道、日光例幣使街道沿いの宿場町であることが分かる。
 白川部達夫氏によれば、関宿では江戸の干鰯場のように市で値を競るのではなく、問屋が北関東各地の肥料商から注文を受けたり荷主から荷を預かって販売した。また直接出張してくる銚子商人を逗留させ、買い付け客と直接交渉させることもあったようである(9)。関宿の問屋はその仲介手数料「口銭」を利益とした。
 利根川河口に一旦集められた干鰯(不漁の際は糠肥)が、そこで俵詰めされ船で関宿まで送られる。そして関宿の問屋を介して更に上流の農村地域にいる多くの干鰯商達に売り捌かれていく。関宿からの交通手段としては、専ら川船が用いられたろうが、街道添いを馬で運ぶこともあったようである。そうした関係性と範囲、ルートなどがこの図で確認できるだろう。
 なお、余談ではあるが、明治二八年の『大日本農会報(10)』で海上郡瀧郷村の農会員が、銚子の商人は六〜七割の干鰯や〆粕に三〜四割の砂や海藻などを混ぜ、堆肥のように発酵させたものを俵にしている、と報告している。そして「何故斯る不正品を輸出するやを問ひしに答へて曰く彼の地方にては古来斯る肥料を施用し来り因襲の久しき之れを真正の魚類肥料と心得居るを以て今となりて真正品を送らんか彼の地農民は之れを以て却て不正品なりと誤認し大に販路を損ずる傾向あるを以て依然斯る法方に為さゝるを得ず」とのことであった。つまり、この地域では昔からこうした混ぜ物の干鰯等を作ってきたので、今更混ざり物の無い品を送っては却って不正品と思われて売れなくなる、というのである。どうやら肥料に混ぜ物をする慣行は、安政四年の事件以降も止むことなく明治半ばまで続けられており、むしろそうした品が当たり前に流通していたようである。

利根川河口から北関東への干鰯・肥糠荷の流れ

            

(1)−(1)荒井英次「近世農村における魚肥使用の拡大」『日本歴史』二六四号 一九七〇年 −(2)古田悦造『近世魚肥流通の地域的展開』古今書院 一九九六年 −(3)白川部達夫「近世後期主穀生産地帯の肥料商と地域市場」『東洋大学文学部紀要 第六五集史学科篇』三七   二〇一二年 −(4)原直史『日本近世の地域と流通』山川出版社   一九九六年など。
(2)−(1)原直史「近世房総をめぐる物流と海船」『千葉県史研究』三号千葉県 一九九五年 −(2)宮坂新「近世関東における干鰯流通の展開と安房」『世界とつなぐ起点としての日本列島史』清文堂出版 二〇一六年
(3)幸手市教育委員会生涯学習課市史編さん室編『幸手市史 近世資料編㈼』 一九九八年
(4)原直史「史料紹介『粕干鰯商売取扱方心得書—江戸干鰯問屋の経営マニュアル—』」『論集きんせい』一六 近世史研究会 一九九四年、によれば、七代目喜多村藤蔵の壽富が天保六年〜安政五年(一八三五〜五八)に「粕干鰯商売取扱心得書」等を記した当時は、本家当主は藤蔵を名乗り、これが壮年で隠居して富之助を名乗り江戸店の名前人となる慣行であったという。しかし、本資料には「富之助幼年故父藤蔵同居ニ付」とあるため、そのまま父藤蔵・子富之助とした。
(5)−(1)奥原謹璽『関宿志』関宿町教育委員会 一八七三年 −(2)加藤光子「地籍図による関宿河岸の復元—向河岸・内河岸を中心として—」『研究報告』一号 千葉県立関宿城博物館 一九九七年   −(3)同著「近代関宿向下河岸における景観の認識—「旧土地台帳附属地図」と「旧土地台帳」を使用して—」同二号 千葉県立関宿城博物館 一九九八年
(6)前掲書註5−(1)
(7)前掲書註3−(2)岩淵令治「幕末 関東豪商の江戸屋敷・田畑購入心得書—喜多村壽富著「家訓永続記」の紹介—」『論集きんせい』     一九 近世史研究会 一九九七年
(8)前掲書註1−(2) 二〇〇頁
(9)白川部達夫「近世後期主穀生産地域の肥料商と流通」『東洋学研究』四七号 二〇一〇年
(10)『大日本農会報』一五七号 大日本農会事務所 一八九四年

(えのき・みか 当館主任上席研究員)
 

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