権現堂河岸の成立とその背景

権現堂河岸の成立とその背景

~ 齊藤 仁 ~

1. はじめに

近世初頭より幕府・大名は、江戸への年貢米廻送を行うため河岸の整備を行った。元禄三年(1690)の河岸吟味によって公認された86の河岸を旧河岸というが、それらの河岸はどのようにして成立したのだろうか。上州倉賀野河岸では慶長六年(1601)説と慶安年中(1648~52)説、あるいは元禄四年(1691)説(1)などがあり、その成立については不明な点が多い。

また、総州境河岸についてもその成立は定かでない。近世の河川改修工事により河川交通路が整備され、河川交通は飛躍的に発展したが、戦国時代と近世をつなぐ河川交通の歴史的過程についてはどうであったのか、旧河岸の成立を明らかにすることにより戦国時代から近世への過程が明確になると考える。

しかし、残念ながら史料が乏しくその成立を明らかにすることは難しく現段階では推測するのみであるが、権現堂河岸を中心にその成立について考察してみたい。

2. 権現堂河岸

『新編武蔵風土記稿』(以後『風土記稿』と略す)の権現堂村(現埼玉県幸手市)の項に、「河岸場アリ権現堂河岸ト唱ヘ問屋六軒アリテ船九艘ヲ置江戸迄水路凡二十五里内国府村旧家角右衛門カ所蔵セル伊奈駿河守忠次ヨリ幸手新宿野原太郎左衛門ヘ与シ慶長四年定書ノ内ニ権現堂河岸ノ名見ユ是ヨリ前ノ名ナルコトシラル」とあり、慶長四年(1599)にはすでに河岸場となっており、6軒の問屋と9艘の船を置いていたことがわかる。

この当時の利根川は、会ノ川が締め切られ(1594)東方へ流路をを変え始め、渡良瀬川と浅間川を経て庄内古川・古利根川に注いでいた時期があった。同書によれば、利根川の栗橋あたりから庄内古川に注ぐあたりまでを権現堂川といい、権現堂村はこの権現堂川の屈曲点に位置し、幾度となく水害に見舞われ、天正四年(1576)にはすでに長さ500間・高さ1丈8尺もの大規模な堤防の一部が築かれていた。

また、『武蔵国郡村史』の権現堂村の項を見ると、「河岸場相伝う慶長四年伊奈駿河守勤務中中川岸場となし権現堂川岸と云近郷七ケ領の米及諸荷物津出場となす安永三年石谷備後守勤務の時積問屋冥加永を納めしむと、享和二年利根川希有の洪水にて村内堤三百間余破壊し民家六十一軒流出の時古書類悉く流出す故詳細を知るに由なし今口碑を記するのみ」と記され、大洪水が起こっている。

ではなぜ幕府は、このように度々水害を受けるような場所を河岸場としたのだろうか。その理由について探ってみたい。

1 伊奈忠次の新田開発の地

代官伊奈忠次は、関東入国直後、足立郡小室に陣屋を設けて関東一円の新田開発にあたった。忠次の開発の特徴のひとつには、河川流域の自然堤防上に立地する古村の持添的開発にあり(2)、権現堂村はこの開発によるものと考えられる。

『風土記稿』によれば、大膳新田について「村民大膳トイヘルモノ開發セリ内国府間村旧家角右衛門カ所蔵セル伊奈駿河守忠次ヨリ幸手新宿野原太郎左衛門に与ヘシ慶長四年ノ文ニ新田ノ儀ハ開次第御扶持被下者也云々ト見ユコノ頃開キシニヤ検地ハ本田ニ同シ」とあり、権現堂が河岸場となった慶長四年頃に新田開発が行われ、元禄十年(1697)に検地が実施されている。

また同書によれば、権現堂村に隣接する上吉羽村では元禄十年頃に新田開発が行われ検地が実施されている。他の村について詳しい記載が見られないが、この権現堂村が周辺地域の中で新田開発が一番早かったのではないか。従って収穫した米を津出しする基地として近郷7か領の河岸場とされたのではないかと思われる。

2 輸送力

次に、輸送力の面から考えると近世の利根川の河川交通が発達するのは、改修工事が終わり江戸への輸送路が確保されるようになってからである。

近世初頭、諸大名は年貢米輸送を行うために自らの手によって船を造った。それは近世初頭にあって大量の輸送力を持つ大きな船が不足し、多くの船が田船程度の小規模なものであり、諸藩の廻米輸送を十分に満たすだけの船がなかったからに他ならない。幕府代官が江戸への廻送にに迫られたとき、まず考えたのがこの船をどのように確保するかということではなかったか。先に述べているとおり、権現堂村では、慶長四年にはすでに6軒の問屋があり、9艘の船が置かれていた。これら6軒の問屋はどのような問屋であったのか、また9艘の船がどの程度の規模であったかは定かではないが、問屋として船を所有していることから廻送問屋と考えるのが妥当であろう。

近世初頭において、9艘の船数は果たして多い数なのか、それとも妥当な数なのか。この船の数について考えてみたい。

 明暦三年(1657)、本丸御用奉行が利根川上流の河岸に宛てた文書(3)を見ると、足利銅を運搬するために23艘の平太船を出せというもので、倉金(倉賀野)4艘、沼上6艘、八斗島1艘、三友1艘、荒井1艘、一本木・前島3艘、平塚5艘、石塚・前木1艘とあり、これらの数は各河岸のすべての数とは考えにくく各河岸にとって最低限の数であったと思われる。仮に各河岸の3分の1、4分の1としても多い河岸で20艘前後、少ない河岸では4艘前後となる。場所や年代が違うため正しい比較とは言えないが、権現堂河岸の9艘というのは、その当時としては比較的多い数であったと思われる。

 代官が年貢米を江戸へ輸送するにあたって、船そのものが不足していた当時において、1つの村で船9艘を所有する権現堂村は輸送力については都合が良かったのではないかと思われる。

3 問屋との関わり

権現堂河岸に6軒の問屋があったことはすでに触れているが、これら問屋はいつ頃誕生し、どのような問屋であったのだろうか。権現堂村が河岸場と定められた時点で船を造船し、問屋業を営むということが果たして可能であったのだろうか。

中世戦国時代において関宿・古河を中心とする一帯は軍事的・政治的に重要な拠点であり、商人荷物や軍事物資輸送に河川交通が利用された。

天正年間(1573~93)と推定される北条氏照が家臣の布施美作守に宛てた書状(4)の中に「一、八甫を上船者、商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候、」とあり、武蔵八甫(埼玉県鷲宮町)に商船が30艘も集中しているが、他船も上がってくるので速やかに船籍地に戻るように諭告している。このことから30艘もの船が各地から八甫に集まるということは、八甫が物資輸送の中継地もしくは集散地であったと考えられ、河川交通によって栄えていたと思われる。権現堂河岸においても慶長4年当時すでに6軒の問屋が存在していたということは、天正期にはすでに河川交通を利用して商品物資や軍事物資などを運搬し、運送業を営んでいたとは考えられないだろうか。

問屋と代官との関係は推測するばかりであるが、物資輸送を行う問屋が存在していたということは、代官としては、それら問屋もしくはその船を利用して輸送が行えたはずであり、河岸場とするには都合が良かったはずである。

4 川が合流する地点

先にも触れたように、慶長四年当時の利根川は会ノ川が締め切られ、大越(埼玉県加須市)付近で3つに分かれた。そしてその内の2本は渡良瀬川と合流して現在の利根川筋を南下し、古利根川へ注いだ。残る1つは浅間川として南下し、高柳(埼玉県栗橋町)付近で渡良瀬川水系からの分流に合流し(5)、古利根川筋へ流れ、川口付近で2つに分かれた。その1本が権現堂付近で利根川筋と合流したと考えられる。

すなわち、権現堂村付近は渡良瀬川水系と古利根川の分流が合流する地点であった。川が合流する地点は各地からの物資の集積地として都合が良く、江戸だけでなく他の地域との連絡においても都合が良かったはずである。利根川上流においても烏川・鏑川・神流川と合流する付近に河岸場が多く整備され、鬼怒川・渡良瀬川流域においても他の河川と合流する地点に河岸が成立していることから、川が合流する地点が1つの要因と考えられる。

3. むすび

以上、権現堂河岸の成立について、(1)新田開発が権現堂村付近で一番早かった。(2)権現堂河岸には9艘の船があり、輸送力があった。(3)問屋との関係において都合が良かった。(4)川の合流地点であった、の4つの観点から考察してきたが、どれか1つの要因で成立したというよりも、これらを総合的に判断して河岸場としたのではないかと考える。

 先にも触れたように享和二年(1717)の大洪水で古い記録が流出しており、史料が少なく推測の域を出ないが、河岸場とするからにはそれなりの理由が必ずあったはずである。今後さらに調査・研究を進めながら河岸の成立について迫っていきたい。


  1. 川名登「上利根川水運史の問題」『地方史研究』43号、1960年
  2. 『新編埼玉県史』通史編3、近世1、埼玉県
  3. 『群馬県史』資料編14、近世6、335号文書
  4. 同資料編10、近世2、309号文書
  5. 原田信男「鷲宮地域の中世村落」『鷲宮町史』通史、上巻

(さいとう ひとし:千葉県立関宿城博物館研究員)