関宿藩札についての一考察

関宿藩札についての一考察

~ 島田 洋 ~

1. はじめに

藩札に関する一般的な理解は、諸藩が財政補填の一環として発行した領内通用を目的とする兌換紙幣、となる。江戸幕府の三貨制度の確立によって領国通貨は消滅をみたが、幕府正貨の流通実態は大坂・京都・江戸等に集中する色彩が強かった。しかも生産力の上昇に伴う商品流通の発展により貨幣の需要が増し、諸藩の領内では慢性的な通貨不足に悩まされていた。このため、藩札をもって領国の基本通貨とすべく、兌換準備金の確保と札元たる有力商人の信用が円滑な流通の必要条件となった。

  寛文元年(1661)の越前福井藩札を初見とし(1)、明治初期に至るまで244藩で藩札が発行されたが、その多くは西日本の諸藩で占められている。関東地方では僅か20藩程で、西日本の飛地で発行されている例が多い。これは、西日本が「札遣い」を慣例とする経済先進地域であり、幕府正貨を得るのに都合が良かったことを物語る。

  下総関宿藩では和泉国の飛地(大阪府堺市)で2種類の藩札(以下飛地札と略す)を発行していたことは古くから知られているが(2)、このたび関宿本領地で発行・通用した藩札が2種類発見された(3)(以下本領地札と略す)。本稿は、これらの藩札の性格や経済的背景を考察し、もって関宿藩政の一端を垣間見ることを目的とする。

2. 飛地札

飛地札江戸時代の堺市域は、特定の大名領は存在せず、徳川御三卿や幕府の要職にある譜代大名の領地、及び代官支配の蔵入地が混在した、広い意味での幕府領とも言うべき形態を有していた(4)
幕府の側用人を勤めていた十四代藩主牧野成貞は元禄元年(1688)に和泉国大鳥・泉両郡の一部を加封されたが、久世重之の十六代藩主就任以後久世氏の支配が続き(5)、廃藩置県に至るまで関宿藩の飛地として存続する。その石高はおよそ4千800石であった。
本領地関宿はかつて「抑彼地(関宿)入御手候事者、一国を被為取候ニも不可替候」(6)と称されたように戦国期後北条氏の戦略拠点であった。江戸時代の利根川東遷事業による流路の変更と江戸川の開削により二大河川が分岐することとなり、その後利根川水運の中継地として経済的発展の可能性を有することになる。しかしその一方で河川で囲繞されたことが数多くの水害を背負い込むことになり(7)、その結果藩財政は逼迫する事態に陥った。
そこで飛地の存在が重要になってくる。藩財政補填のための資金の確保は急務であり、経済先進地での藩札発行は当然の帰結であった。藩は文政十年(1827)に銀1匁及び5分の2種の飛地札を発行した。
表には「泉州伏尾 関宿領」とあり、俗に「伏尾札」と呼ばれた。伏尾は飛地の中核地として関宿藩の代官所(久世陣屋)が置かれ、藩の代官が詰めてその支配に当たっていた。なお、幕末の藩代官を勤めた鈴木為輔(由哲)の子鈴木貫太郎はこの地で生まれ、後に内閣総理大臣として第二次世界大戦の終結に貢献した。
裏には「米弐升之価引替可申候」とあり、「米札」と呼ばれていたが、実質は銀札である。また、札元として「中辻吉兵衛」の名が見える。中辻家は堺の商人和泉屋にその出自をもち、延宝三年(1675)に伏尾に来住して新田開発・経営を行った。その後中辻家は同地の総領庄屋となり、関宿藩代官所の勘定方を勤めた。中辻家は同地において新田経営による地代の蓄積、木綿栽培・仲買等を行うとともに、質屋も開設して資本を蓄積した。飛地札の発行に際しては札元になり、発行と流通の権限をもつようになった(8)
関宿から見れば和泉国は遠隔地であり、代官所を置くだけではその支配力は脆弱なものと言わざるを得ない。ましてこの地で藩札を発行し、信用に裏打ちされた確実な流通を図るためには、中辻家のような強大な経済力を有する地元有力者に依拠することが不可欠だった。飛地札発行の目的は、幕府正貨を調達して藩の財政補填に資することにあったが、そればかりでなく領内の困窮農民の救済にもあった。飛地札をもって農民に対する貸付が実施された。利息は概ね月6朱(0.6%、年利7.2%)だった。この制度は困窮農民の救済によって農村を安定させて年貢米の徴収を確実なものにするばかりでなく、飛地札を民間が受容してその信用度が高まることによって広範な流通に大きな役割を果たした。また、利息徴収そのものが藩財政の補填に効果があった。つまり、2つの目的は別個のものではなく、広い意味で藩政の安定化への効果が期待されたと言える。
諸藩が藩札を乱発したことによって、幕府の貨幣改鋳も相俟って深刻なインフレーションを招いたが、藩札自体も価値が下落し、各地で「札騒動」が発生した。関宿藩の飛地札も同様の危機に遭った。
発行高を見ると、初年は約111貫目だったが、天保二年(1831)には11倍近くの1,100貫目余りに達しており、領内ばかりでなく、領外にも流通するようになった。前述のとおり、特定の領主をもたず、種々の領地が錯綜した状況において、藩札流通が領内に限るといった原則が崩れつつあった。こうした傾向は他領からの反発を招くことになり、自領経済安定のために関宿藩の飛地札を締め出すところも出てきた。これは飛地札の信用低下に伴う札価下落の危機をはらむ。その打開策は兌換準備金の十分な確保にあった。兌換準備金は藩札発行によって得た正貨をもって充てるべきだが、不足した時には大坂の豪商鴻池善右衛門や殿村平右衛門らの融資を受けた。その一方で安政三年(1856)には発行高を大幅に縮小する政策をとり、適当な数量の流通により藩札の信用維持に努めた。危機を回避した飛地札は明治維新に至るまで安定した流通を保った。

3. 本領地札

飛地札従来の研究では、関宿藩の藩札発行実績は和泉国飛地のみとされてきたが(9)、このたび2種の本領地札の発見をみるに至った。両者とも飛地札に比べて幅広で、表にはそれぞれ額面の「銀壱匁」「銀五分」があり、裏の額面には「喜」の押印がなされている。発行年は特定できない。
藩札を発行した関東地方の藩の多くが西日本の飛地にて発行したにもかかわらず、なぜ関宿藩が本領地においても藩札を発行したのだろうか。本領地札の発行及び流通に関わる史料の存在が確認できていない状況であるので、関宿ないし関宿藩の特質から推測していきたい。
前述のとおり、関宿藩の財政は度重なる水害で多大な損出を蒙ったが、その一方関宿は利根川水運の中継地として隆盛を極めた。大消費地江戸をターミナルとした河川交通網の確立により北関東及び利根川の支流鬼怒川を介した東北地方からの物資の流通が盛んになった。また、醤油醸造をはじめとする地場産業の誕生がその隆盛に拍車をかける結果となった(10)。こうして関宿は関東有数の商業地となった。しかし、物資の集散に伴って小額貨幣が不足し、この事態に対応するための措置として本領地札が発行され、正貨と併存する形で流通した可能性がある(11)
もう1つ考慮すべきことは関宿藩の専売制との関わりである。関宿は商業地として栄えたが、その一方で水害等の影響で農業生産力は決して高いとは言えない。この状況打破の方策が茶栽培の奨励で、「猿島茶」の名で販売を独占する専売を実施し、安政六年(1859)には欧米に輸出されるようになった(12)。これによって正貨を入手して兌換準備金を確保する、生産地から物産会所に集まった茶は本領地札で買い上げることによって本領地札が農村部に供給される、といった図式が想像でき(13)、恒常的な財政逼迫状況の中で専売のシステムを確立していくための藩札発行は重要な要素になったことが考えられる。
では、本領地札が円滑に流通するための信用の裏付けはどこに求められたのだろうか。江戸川流頭部には水運の取り締まりを主たる任務とする関宿関所が置かれ、その管理運営は幕府から関宿藩に委託された。この関所付近に内河岸・向河岸・向下河岸のいわゆる関宿三河岸があった。なかでも向下河岸の回漕問屋喜多村藤蔵家(通称「喜多藤」)は干鰯・〆粕等の海産物を手広く扱っていた。関宿を拠点に江戸小網町等にも店を構え(14)、近世後期の干鰯商売の中核的地位に登りつめた。ここで問題としたいのは本領地札裏の「喜」の印である。これは喜多村家の印であり、本領地における札元の任にあったものと思われる。喜多村家は強大な経済力(15)を有してたとともに、関宿関所の船改めを行う(16)など関宿藩の権力機構に深く関わっていたことは飛地の中辻吉兵衛と同様の形態である。本領地札の円滑な流通の前提となる信用の裏付けをここに求めることができる。

4. むすびにかえて

関宿藩は和泉国飛地と関宿本領地でそれぞれ藩札を発行したが、関宿の土地柄及びそれに伴う藩の特質にその契機を求めることができる。つまり、度重なる水害によって悪化した財政を補填する、幕府正貨の慢性的不足を解消する、「猿島茶」の専売システムの確立するためにに藩札の発行とその円滑な流通は必要条件であった。関宿藩は飛地と本領地の各々の特質に応じて地元有力者の経済力に依拠した藩札政策を運営した。
なお、本領地札については、その実情を知る史料が乏しい状況により推測の域を出ない考察となったが、関連史料の発掘に努めるとともに、藩法や仕官録等の精査を通じて藩士への給付・貸付における藩札の役割と流通実態を究明することが今後の課題となる。


  1. 備後福山藩で寛永七年(1630)に藩札を発行したとの記録があるが、藩札自体は未発見である。鹿野嘉昭「委託研究からみた藩札の流通実態」『金融研究』15-5、1996年等を参照。
  2. 作道洋太郎「近世農村社会にみられる信用通貨の問題―関宿藩伏尾領を中心として―」『日本貨幣金融史の研究』1961年(以下作道論文と略す)、『堺市史続編第1巻』1971年(以下『堺市史』と略す)、国立史料館編『江戸時代の紙幣』1993年、ほか。
  3. 拙稿「博物館資料-関宿藩藩札-」(千葉県立関宿城博物館報2号1996年)において飛地札2種と本領地札1種(一匁)を紹介しているが、その時点では本領地五分札の存在は未確認。
  4. 『堺市史』。
  5. 堺市には「久世小学校」のような藩主久世氏にちなむ名称が現在も残されている。
  6. 永禄元年5月24日付北条氏康書状「喜連川文書」(『古河市史』資料中世編970号文書)。
  7. 特に宝暦期から天明期にかけての水害で幕府より復旧費として合計2万両の貸与を受けた(『徳川実記』、奥原謹爾『関宿志』1973年関宿町教育委員会)。
  8. 作道論文及び『堺市史』。なお、飛地札の考察についてはこれらの成果に依拠するところが大きい。
  9. 作道論文、『日本史総覧【4】近世1』1984年、ほか。
  10. 拙稿「利根川水運と関宿の河岸-関宿三河岸の繁栄-」『産業考古学会第21回総会研究発表講演論文集』1997年。
  11. 岩橋勝氏は但馬出石藩の具体的事例を紹介している。「ワークショップ『江戸時代における藩札の流通実態』の模様」『金融研究』15-5、1996年参照。
  12. 椎名仁・渡辺貢二『猿島茶に生きる』1977年、茨城県茶生産者 組合連合会『茨城の茶業史』1989年。
  13. 檜垣紀雄「藩札の果たした役割と問題点」『金融研究』8-1、1989 年で福井藩を例にして藩専売制下の藩札発行の効果について考察 している。
  14. 岩淵令治「江戸における関八州豪商の町屋敷集積の方針と意義-関宿干鰯問屋喜多村壽富著『家訓永続記』を素材に-」(『近世の社会権力-権威とヘゲモニー-』所収、1996年)において、同家の江戸進出について詳細な分析がなされている。
  15. 「大和守さま(関宿藩主久世氏)五万石、喜多村さま十万石」 「お江戸日本橋の飛地」等の評判が立った(奥原前掲書)。
  16. 奥原前掲書、喜多村常次郎『西関宿誌』(私家版1967年)ほか。

(しまだ ひろし:千葉県立関宿城博物館研究員)