切り開かれる香取の海

第二展示室

江戸に一大都市を築こうとした徳川氏は、今の東京湾にそそいでいた利根川のたび重なる洪水から当時の江戸を守ろうとしました。このため約60年の年月をかけて川の流れを東へ東へと向け、ついに銚子口から太平洋に押し出す工事を完成させました。
これによって古代からの香取の海は急速に土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野とかわり、やがて本格的な開発の手が加えられるようになりました。

 

1000年前~江戸時代~現代の利根川の流路変遷

1000年前~江戸時代~現代の利根川の流路変遷

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近世支配図

近世(江戸時代)の利根川下流域の多くは、旗本領と幕府の直轄地(天領)でしたが、大名領も点在していました。大名領のほとんどが譜代で外様大名は茨城県麻生の新庄氏(1万石)と谷田部の細川氏(1.6万石)だけでした。なお、旗本の支配は、一村を複数で支配する相給(あいきゅう)の型がほとんどでした。大戸川村(香取市大戸川)は、旗本12人と代官の13人で支配していました。

 

十六島新田の移り変わり(当館の所在する香取市新島)

利根川の東遷によって砂洲と化した香取の海の本格的な開発は、天正18年(1590)旧江戸崎藩の巨石田駿河守により始められました。それから、寛永17年(1640)までの50年間に、上之島、西代、八筋川村などをはじめ16の新田が次々に開かれました。