千葉県立関宿城博物館

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よみがえる関宿城
    

近世関宿城の歴史は、天正18年(1590)に徳川家康が関東へ入府した際に、異父弟の松平康元が2万石(後に4万石)で、城主となったことに始まります。その後、城主は明治維新を迎えるまで8家23代にわたり、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就くなど、幕政においても重要な地位を占めていました。
 当時の関宿城は、当館から南へ500mほど行ったところにあり、今回のコーナー展では、普段の常設展では展示していない絵図、古文書及び関宿城跡から出土した遺物等を出陳し、藩士の生活の一部などを紹介しています。

  
   
 1 関宿城の姿

 中世の関宿城については、詳しいことはまだわかっていませんが、江戸時代の関宿城は、現在の関宿城博物館よりも南へ500mくらい行ったところにありました。その遺構は、河川の氾濫(はんらん)や改修工事などによりほとんど残っていませんが、残されている絵図や発掘調査などの成果から、その様子をある程度知ることができます。

 関宿城は、方形に近い縄張(なわば)り(城域)をもち、本丸の隅(すみ)には、江戸城の富士見櫓(やぐら)を模(も)した御三階(ごさんかい)櫓が天守閣(てんしゅかく)として建っていました。また、城域の中には、蔵、武家屋敷、町屋、馬場、堀などがありました。

 明治4(1871)に関宿藩は廃藩となり、同7(1874)には城郭(じょうかく)の解体及び払い下げが行われました。当時の建物で、現在でも市内に残されているのは、実相寺の客殿と小林家の四ツ足門だけとなっています。


関宿城跡 総州関宿城図
関宿城跡
総州関宿城図


 
2 関宿藩歴代藩主

 

 

 関宿藩は、天正18年(1590)に徳川家康が関東へ入国した際、異父弟の松平康元に2万石を与え、関宿城主としたことに始まります。松平氏の後は、小笠原氏、北条氏、牧野氏、板倉氏、久世氏というように代々幕府譜代(ふだい)の大名(8家23代)が配され、明治維新まで続きました。なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き、幕政においても重要な地位を占めていました。
 また、関宿は東北地方のとざま外様(とざま)大名に対する備えや水上交通の要衝(ようしょう)であったことなどから重要な地域とされていました。 ここでは、主に久世氏に係る書状、系図や家訓などを紹介します。

2-1久世家略系(りゃくけい)

城内建物及び武具備(そなえ)等に関する記録

久世家略系(りゃくけい)

 


3 関宿藩士のくらし
 
 
 関宿藩の藩士は、城代・中老・家老を筆頭に、およそ500人で組織されていました。藩士は、城内の武家屋敷や江戸屋敷などに住んでいました。 しかしながら、どこの藩でもそうであったように下級の藩士は、藩からの禄(ろく)だけでは生活ができないので、内職などをして家計を支えていました。 
 藩士は、日常は藩主から割り当てられた勤めを果たす傍(かたわ)ら、学問や武芸に励(はげ)みました。
 文政7年(1824)には、久世広運(ひろたか)によって、藩校「教倫館(きょうりんかん)」が創設され、藩士の子弟を中心に、学問や武芸の教育が行われました。 ここでは、藩士の日常の勤め、学問や武芸に関する資料などを紹介します。学問では、筆道、算法、儒教、歴史など、また武術では、兵学、槍術、剣術、柔術、弓術、砲術、馬術、遊泳などが学ばれていました。

裃 鞍 鐙
裃(かみしも) 鞍(くら)・鐙(あぶみ)